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zakki_diaryのブログ

日々の記録。

5/18

ショーペンハウアーの、読書について(鈴木芳子訳)という本が面白い。

まだ読み始めたばかりだけど、読み終えた部分で良かった所を留めておきたい。

真実と生命は、もともと自分の根っこにある思想にだけ宿る。私たちが本当に完全に理解できるのは、自分の考えだけだからだ。本から読み取った他人の考えは、他人様の食べ残し、見知らぬ客人の脱ぎ捨てた古着のようなものだ。

・・・読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人に委ねることだ。おまけに多くの書物は、いかに多くの誤った道があり、道に迷うと、いかにひどい目にあうか教えてくれるだけだ。

 この章では、一貫して「思索の重要性」を言葉を変えて何度も提言している。

いつも日々の生活について思い悩んで、自分なりに答えを出してきたけれど、これは自分に直結することだからこそできたのではないかと思う。

逆に専門の勉強なんてすべて本からの受け売り知識ばかりだなって思った。

自分で考えて言葉を紡ぎ出すには明らかに知識が足りないし、将来の生活が懸っている、言い換えれば職のための知識だし、純粋な興味とは言えない。

興味はあるんだけど、やっぱり自分に直結する純粋な興味とは明らかに意識の差が違う。

これは仕方のない事ではあるけど、才能の差っていうのはこの違いを言うんだろうなと思った。

何はともあれ、日々の生活について考えることをやめてはいけないのだと改めて感じた。

例えそれが目に見える利点にならないとしても、自分の為に考えることは決して無駄じゃないと思いたい。

会話の才には、まず理解力・判断力・生き生きとした機知が必要で、そうした特性が会話に妙味をそえる。それから会話の素材、つまり相手と何について語るか、その人の知識が問題になる。知識が極めて乏しいと、素材の点で誰もが良く知っている世情や空模様といった話題に頼ることになり、前述の特性が並外れてハイレベルの時だけ、会話に価値を与えることができる。

逆に、こうした特性に欠ける者は、何らかの知識で会話に価値を与えるしかなく、「どんな愚者でも我が家にいれば、他人の家にいる賢者より事情に明るい」というスペインのことわざ通り、素材に完全に頼ることになる。

うわー俺じゃんと思ってしまった。いつも天気の話はしてしまう気がする。

話せないことばかり考えてるから仕方ないじゃないか・・・